生命を解明するため 古来より 多くの科学者 文学者
詩人 哲学者 宗教家が あらゆる方向から挑んでおります
その中で 最も分かり易い 仏教の十界論 を紹介いたします
仏教の生命論は深く
生命活動を 立体的 流動的にとらえた十界互具論
生命の機能 本体 可能性 を説いた十如是論
個性化の原理を説いた 五陰世間
深層を解明した 九識論 があります
十界論
十界論は生命観と言う生命の我の主体的な実感を柱として成立しています
この点のみを見れば 主観的カテゴリーと考えられます
しかし その生命観と言う主観的なものをとらえた基準は客観的なものです
このように 主観と客観の上に展開されたものであるがゆえに
十界論は いかなる人といえでも その見事さに
心の底から納得せざるを得ない 生命哲理なのです
生きる目的とは
人類は 太古の昔から
賢人 聖人 哲人 宗教家 歴史学者 芸術家が
生涯をかけて 追い求めてきた究極の課題です
「何のために生きるか」
生きる目的とは
殆どの人の思いは・・・幸福になるためです
幸福とは・・・満足であり 心は歓喜です
幸福や歓喜の中でも
一時の歓喜(相対的幸福)と
究極の大歓喜(絶対的幸福)とがあります
相対的幸福は いつ崩れ去るか分かりません
又 何処まで追い求めても きりがありません
では
絶対的幸福とは大歓喜とは いかなるるものなのか
いかにして手に入れる事ができるのか
参考→ 幸福の条件
ソクラテスは 「汝自身を知れ」 と言います
すべてを知り尽くした哲学者の結論です
すなわち 汝自身を知る事が大歓喜であり絶対的幸福
と言う事になります
ここで 一つの結論を申し上げます
汝自身を知るとは
生きると死ぬ の法則 生死の法則を知る事なのです
すなわち ソクラテスの「汝自身を知れ」の結論が 今回の出発になるのです
-①-
この世には 様々な数え切れない程の法則があります
絶対と言える 万有引力の法則 アルキメデスの法則 物質不滅の法則
電機関係の人におなじみの フレミングの法則 オームの法則
等があります
中には 北の偉そうな将軍様が作った いいかげんな法則や
面白い「マーフィーの法則」などもあります
憲法もあれば道交法もある
国会では 今でも新しい法を作り続けています
しかし 数ある法則の中でも 自分の一生を左右し
密接にかかわり続け 逃れる事ができない
大事な 究極とも絶対とも言える法則が二つあります
一つは 原因と結果 (因果の理法)
もう一つは 生きると死ぬ(生死の二法)
いかなる科学者も思想家も いかなる財閥も権力者も
聖人君子も この2つの法則に逆らう事も逃れる事もできないのです
この 何よりも大事な法則を 真っ先に学ばなければならないのです
科学の世界でも生命物理学の研究でも あり得ない生命の姿に
想定 仮定の領域を ありのままの姿を示すだけで 答えが出ません
科学者が 宗教を否定しない理由の一つが ここにあります
この大事を教えるべき 聖職者は 無知であるばかりか
保身のために都合よく解釈し 宗教に疎い信者をコントロールしています
この世の不幸の原因も 迷路に迷い込んだ社会問題も
この基本的な 二つの法則を無視したが故の不幸といえるのです
因果の理法 生死の二法 を正しく知らない事は 無視する事は
夢遊病者のように 徘徊老人のように
自分は何処から来て 何処へ行こうとしているのか
自分は何をしようとしているのか 分からないのと同じだと思えるのです
羅針盤の無い船が 大海原で漂っているのと同じです
山で 道標を無視しているのと同じです
狭い 暗い 洞窟の世界から 一歩も外へ出ないのと同じです
こう 最初に結論を言い切ると 感情的に 反発する方や
文句を言いたい方も 大勢いらっしゃると思いますが
何故かを 分かり易く ご説明いたしますので お待ち下さい
プラトン
の話だったと思うが
生まれてから今に至るまで 囚われて洞窟で生活している人達に
「青い空と緑の大地」の話をしても 誰も信じないのです
「太陽」の存在など 想像さえできないのです
この人達は 壁に映る白と黒の影と 岩に生える茸と
こうもりのギャー と言う泣き声がすべての世界なのです
それが自然であり 常識であり 普通なのです
誰かが「さあ 外の世界を見てみよう
七色の花に小鳥の囀(サエズ)り
太陽に照らされた大自然を」と さそっても
皆 話を聞くどころか 外の世界を語る人は皆から
バカにされ きちがい扱いにされ 迫害も受けるのです
歴史上現れた 賢人 偉人 聖人の多くが迫害されたのと
同じ方程式です
高い山は 常に風当たりが強いのです
歪んだ社会では 正論を言う人を 嫌うのです
常識が 非常識となるのです
一度抱いた常識を先入観を捨てて 賢人の言う事聞く事はないのです
普通の人に「因果の理法 生死の二法」を正しく理解してもらう事は
・ 紙芝居しか知らない人に 4Kテレビを理解してもらうように
・ 火の見やぐらしか知らない100年前の人に
東京スカイツリーの高さを説明するように
・ 荒川の土手しか知らない人に ヒマラヤ登山を教えるように
難しい事なのです
絶対 信じないのです
推し量る基準(ものさし)がないからです
自分の小さい知識 経験からは創造さえできないのです
当然 重要性も理解できず 自分の一生を左右する事なのに
今の私には関係ない と思うのです
因果(原因と結果)は安全の法則
生死(生きると死ぬ)は幸福の法則
因果は信ずる 生死は演ずる
又々結論を言ってしまいました あしからず
更に 結果を変える「縁」も理解しなくてはなりません
不思議なもので 人は因果(原因と結果)を無視した
非科学的な 奇跡とか 偶然とか 神のお告げとか
裏付けの無い予言とか 占い、おみくじ、ハルマゲドン、とか
単なる金儲けの お払い 厄払い お守り 霊感とかを
簡単に信ずるのです
科学的 論理的 妥当性 裏付け等に
何の疑問をいだく事もないのです
そう言うものだと 錯覚しているのです
たしかに 現代の科学ではまだ解明されていない
説明できない 不可思議な現象は多くあるのはたしかです
だからと言って「天の声を聞いた」とか霊感があるとか
守護霊と話したとか
何と人間は単純なんだろう と思わずにはいられません
統計学的に云々ならば 手相や人相等でも
ある程度の確立で 当たる場合もあるでしょうが
陰陽道でも 論理的に正しい場合もあるのです
しかし 人生を賭けるには あまりにも危険です
そして最も科学的な 普遍妥当的な 絶対ともいえる
因果の法則を語る人の言う事を 聞かないのです
信じる人は少ないのです
どうでも良い事に お金や時間や命を使い
大事な(生と死)の問題に関心を示さなのです
何の疑いもなく エセ宗教にまかせっきりなのです
参考 → 何故宗教?
-②-
人間の歴史と課題
ここで 少し 確認しておきたいのです
昔、人は禽獣と変わらず、善悪の判断も無く、親を敬う事も、
恩を感じる事も無く生きていたのです
やがて、道徳が生まれ、宗教が生まれ、人間らしくなっていったのです
キリスト教にしても 仏教にしても 哲学 儒教にしても そな基本は
正しいのです
普遍的な心理を含むものがあり、
人間の捉え方にしても、事物の本質の掘り下げ方にしても、
万人が納得いくものがあった、と言えます
もし 人類文明に宗教 哲学が無かったら、文明の発展は遅く
人間の知恵はいかにも底の浅いものになっていただろうと思います
当初 宗教 哲学は人間のためにありました
人間を 強く 善く 賢くするのが目的でした
しかし 歴史は逆でした
それは 聖職者 僧侶の堕落が原因で宗教が悪いのではありません
聖職者や僧侶は 特権階級のように振る舞い 時の権力者と結託し
宗教を仕事にし 十字軍に象徴されるよう戦争をはじめるのです
日本とて同じ事です 源平合戦の発端の保元の乱は坊主です
宗教は悪くなく 正しいのです
しかし 今の社会 原始宗教に憧れ 高度な精神文明を学ばず
時代を太古の昔に戻してしまった感があります
話を戻します
-③-
この世は科学です 原因のない結果などあるはずがない
奇妙に見える現象にも 原因があるのです
この世は生死です 死なない物などあるはずがないのです
大宇宙を含め生死生死の繰り返しです
これが 時空を超えた 大宇宙の絶対の法則であり
生命の絶対の法則なのです
そして その法則を知る事で 自分自身に 計り知れない
恩恵をもたらすのです 大歓喜を手に入れる事ができるのです
ここが出発であり終着なのです
お断りしておきますが 現代科学でも 説明不能な現象 結果
が出ている事も承知した上で 話を進めます
(この事については九識論の所で少々触れます)
因果(原因と結果) 生死(生きると死ぬ)
↓ ↓
安全の法則 → 求める → 学ぶ
↓ ↓ ↓
絶対の法 → 幸せの法則 → 学ぶ
↓ ↓ ↓
信ずる → 演ずる → 学ぶ
↓ ↓ ↓
歓喜 → 歓喜 → 歓喜 → 大歓喜(悟り
簡単な図面を 分かり易くと思い 書いてみました
かなりおおざっぱで 異議のある方も大勢いらっしゃる事と思いますが
承知の上で
すなわち (信ずる.演ずる.学ぶ)ができれば歓喜に至ると言う事です
「青い空と緑の大地」を初めて見る事ができるのです
最終目的が 大歓喜です この歓喜がすごいのです
人生の目的は幸福です 幸福は歓喜です
歓喜は 勇気を呼び覚ます力です
歓喜は 苦悩を突き抜ける力です
歓喜は 生命を蘇生させる力です
歓喜は 共感の調べを奏でる力です
歓喜をわかりやすく
ベートーベン
の(第九)歓喜の歌は有名です
同じようにあの第5番(運命も 第6番(田園)も
歓喜で終わるのです
まあ 私が好きな曲だから たとえで言います
しかし 見た目では彼の何処にも歓喜は見当たらないのです
不治の病と戦い 世の不正に怒り 生涯貧乏です
だが 透徹した芸術家は 人間が最終的に求めるものが
目的が 歓喜である事を悟ったのです
まあ 曲の構成から 苦しみを乗り越えて 歓喜に至る
と言う事ですが
苦しみを乗り越える方法を語るのではありません
更に その奥にある 根本的な生命を語るのです
参考 → ベートーベン
「ああ なるほど分った」 と言われても 困るのです
この究極の課題を 帰納法的(段階的)に語ることがいかに
困難か それを承知で 語らせていただきます
変な たとえを多用しますが 分かり易くと思い あしからず
先ず→ 何故 安全の法と言うのかです
この一部でも知れば安全性が高まるからです
たとえて言えが 徘徊老人に 赤は止まれ 青は進め
と言う 簡単な 道交法を教えるだけで 安全は増すのです
次に因果を 「絶対の法則」と言ったのは 先に説明した通りです
(この世は科学で 原因のない結果などあるはずがない 例外はない)
と言う事です
もちろん最初にお話しした 因果の法則以外に
様々な法則があるのは承知の上で
また 結果は絶対に変えられない と言うことではありません
そこに介在する 縁の存在が重要になりますが
この説明は後で
道交法なら逃れられる事もあるでしょう 国法でも抜け道があります
しかし 因果の法は おまけも無ければ割引もないのです
もちろん例外など絶対にありません
ただし現在の科学で 説明不能な事象がある事は承知した上での話です
ミクロの世界もマクロの世界もですが 生命そのものとなると
それはあり得ないのです 科学では解明不可能と思われます
これは 九識論で詳しくご説明します
-④-
次に→ 信ずるとは 道交法は見えないのです しかし厳然とあるのです
条文に書かれていても 信じて初めて有効となるのです
赤信号で道路をわたるとどうなるか
事故にあってから信ずるのでは遅いのです
因果の法則も見えないのです 実験をすれば例外なく答え(結果)が出ます
その理論を100年間 研究し 納得するより 信ずる方が早いのです
だから因果は信ずると結論したのです
又 信は知恵を生み出します 知恵は知識を汲み上げます
信は 分からなかった事が 分かるようになる
疑いは 簡単な事でも分からないのです
不信はその行動を止めます だから学べないのです
信は 結合 平和 善 勇気 不可能を可能に
不信は 分断 臆病 戦争 悪 可能を不可能に
信について 後日詳しく語らせて下さい
参考 → 信とは
信は行動に移り その結果を見て学び
更に信が強くなり 歓喜するのです
次に生死は必ず訪れる自分の大問題でもあるのです
関係の無い人等いません 例外なく 必ず訪れるのです
いかに財産を残そうが どんなに名声を高めようが
どれ程多くの知識も体験も 死を目前にした時
何の意味も無くなるのです(一応です)
すべてを捨てて この世の舞台から去るのです
(これも一応です)
ビクリルユゴーは
(人間は 生まれながらにして
すでに死刑の宣告を受けた存在なのである)
と言っています
ハイデッガー(実存主義者)
(人間は死への存在である) 等など
この最も大事な問題を抜きにして
この世の幸せなどあるはずがありません
だから 幸せの法則 と言ったのです
求めず 知らなければ無常な人生で終わります
求めて知れば歓喜(幸福)に至るのです
死の問題と真の幸福の問題はイコール同じなのです
生の問題と真の幸福の問題もイコール同じなのです
-⑤-
次に → 求める とは
それは 自分では分からないからです それが普通です
知識も経験もありません 義務教育では教えていません
学校の先生に 聞いたら
「そんな事 考えるのはやめなさい」
なんて言われそうですね
ここで悪い例を一つ
ピエール・ガッサンデー(フランスの哲学者 数学者)の言葉を紹介します
「私は何故、生まれてきたの知らない どう生きれば良いのか
知らないで生きた そして何故死ぬのか 分からないまま死んでいく」
と 悲しく言いました
彼も求めていたのでしょう しかし それを知る者と出会う事がなかったのです
有名な哲学者と言えども 分からないのです
死の問題は 生命誕生のメカニズムと同じように
今現代に至るまで謎であり 世界中の学者の
大問題なのです 論理的に成り立たないのです
量子論等の 研究から想定して 宇宙の原意識に戻るとか
情報は散らばり 条件が整えば再生する(全身麻酔で言える) とか
まだ想定の範囲です
宇宙の原意識を 神と捕らえるか
仏教の久遠元初の仏と捕らえるか
いずれも 哲学 宗教の領域に入ります
人間は神が作った とか 宇宙船に乗って地球に来た
なんて 事を言う人がいますが
この方が納得し易い 信じられやすいです
論理的に成り立たないから宗教だなんて 思っている人もいますね
又 一度死んだ人に死後の世界を聞くわけにはいきません
(入り口まで行って戻って来た人はいますが)
だから 判らないのです だから求めるのです
求め続けるのです あきらめればそこで終わりです
では「何処で どのようにして求めるか大問題です・
「簡単ともいえるし難しいとも言いえます」
エセ宗教に求めてはいけません 騙されないようにしましょう
先ず 透徹した人物にヒントを求める事も大切です
カールブッセの有名な詩に
(山のあなたの空遠く・・・・からはじまり・・・ ああ涙さしぐみ帰りきぬ)
チルチルミチルの
(幸せの青い鳥は 自分の直ぐ近くにいたのです)等
ヒントはそこら辺にあります
先ほど 死の問題と真の幸福の問題はイコール同じと言いました
(幸福は直ぐそこにある 答えは貴方の足元に)と言うのです
透徹した哲学者 詩人 文学者は
シラー ・・・・・(汝の運命の星は汝の胸中にあり)
ソクラテス・・・・(汝自身を知れ)
デカルト・・・(我思うゆえに我あり)
釈迦・・・・・・(汝自身を省みたずねるが良い)
カント・・・・・(・・・我が上なる星と 我が内なる道徳法則とである)
ユゴー・・・・(・・・空よりも大きな眺めがある それは魂の内部である)
ルソー・・・・(私が語らなければならないのは人間についてである)
カーライル・・・(理想は我々自身の中にある)
等々 世界的な文学者 哲学者 詩人は 口をそろえたように
(一番大事なものは貴方の中にある)と言っています
答えは すぐそこに いや貴方の中にあると言うのです
キリスト教の否定に聞こえますが
それはともかく 簡単ともいえるし 難しいとも言いえます
ここで注意があります
迷路に迷い込んだ聖職者のなんと多い事か
狂ったエセ聖職者に踊らされている人がなんと多い事か
浅い 幼稚な教えに 思索する事も 学ぶ事も
疑問をいだく事も止められ だだ信ずるだけは
楽ですが危険です 要注意です
だから私は → 学ぶ → 学ぶ → 学ぶ と羅列したのです
哲人 聖人は 幸福の因は近くに 直ぐそこに
貴方の中(内)にある と言いますが
エセ宗教家は 幸福の因は別の所(外)にあると言います
自分以外の外に求めます 霊感商法等 その典型です
例外なく 因果の法則を 生死の法則を無視します
それが 得体の知れない 全知全能の神であったり
遠い遠い天国や極楽であったりするのです
お告げ 守護霊 お札 坪 教祖の写真であったりするのです
妥当性がないのです 都合の良い金もうけです
参考 占い 霊
-⑥-
私達は 自分の事を全く知らないのです
先穂で羅列した 透徹した哲学者 詩人 文学者は
自分を知れ 貴方の中に 等など くしくも 方向は同じです
そこから学ばなければなりません
もし学ぶ事ができたら 取得したら
迷い無く大胆に演ずる事ができるのです
だから生死は演ずると結論したのです
生命の個別化の原理、
差別化の法則
個性化の法理
深層の実態
難しそう
学ぶ気がしない 忙しい 暇が無い
いやいや 簡単に分かるのです
求めれば実に簡単なんです
一瞬で分かる事もあるのです
もちろん生涯分からない事もありますが
仏教の経典に 竜如と言う女性(子供)が出てきます
一瞬でわかったと伝えられています
知識 経験 立場 国 人種 一切関係ありません
先に洞窟で生活している人達の話をしました
「青い空と緑の大地」の話を誰も信じないのです
これは 求めようとする人がいないからです
一歩外へ出れば 簡単なのです
一瞬で すべてを学び すべてを理解する事ができるのです
だから「簡単に分かる」 と言ったのです
先ほど (不信は簡単な事でもわからない)
(信はわからない事がわかるようになる)
と言いました
強い信は強い知恵が沸き 行動に移るのです 早いのです
先程 「紙芝居しか知らない人に 4Kテレビを理解させるような」とか
「火の見やぐらしか知らない100年前の人に」とか
たとえ話をしました すなわち 求める物は
自分の常識のはるか彼方にあるのです
いや 常識の外にあるのです
一瞬で分かるか 一生分からないかは
信ずるか 疑うかで 決まるのです
アインシュタインは
常識とは18歳以前に心に沈殿して 積もり積もった偏見以上の何物でもない
それから後に出会う どんな新しい考えも この常識と言う自明な概念と
戦わなければならない と 言っています
普通に生きてきた人に 小さな世界に満足している人に
常識を捨てる事はできません 色眼鏡を外す事はできません
だから難しいともいえるのです
しかし 真面目に世の中の矛盾に怒っている人ならば
この世の地獄を体験した人ならば 生命の
大宇宙の不可思議に驚いた人ならば
(何故だろう 何故だろう 何かある)と 求めている人が多いのです
求めれば簡単なのです
ここからいよいよ核心部分に入ります
暗い洞窟から一歩踏み出す きっかけになればと思います
専門用語を使わずに 理解しにくい表現を使わずにと 思っています
そのため 本意を少し逸脱する場合もあるかもしれません
あしからず
-⑦-
生命の個別化の原理
先ず命とは我とはいかなるものか
生命の誕生は謎であり 一個の人の生命は 地球的規模です
その地球の海水は 人間の血液と その成分がきわめて近く
体温があり 自ら動き 自己修復能力をそなえている
まさに 地球自体も生き物と言ってもおかしくはありません
もし 地球が生き物としたら 生命誕生は少し理解できます
ここの説明は 何処にでもあるので カットします
生命の我の個別化(グループ化)の原理をお話します
先に「この世の地獄を体験した人ならば求めている人が多い」
と言いました おおむね謙虚な人が多いからです
大病を患った人は 深い人生の味を知っています
聞く耳をもっています
皆さんもお分かりでしょうが 順風満帆で来た人は 人の言う事を
なかなか聞きません
苦しみを分析してみましょう
時間がなかなか進まない 体が異様に重い 不自由
↓ ↓ ↓
極限の苦しみは時間が止る 底なし沼に引き込まれる 拘束されている
↓ ↓ ↓
無時間 最低 叫び声も出ない
↓ ↓ ↓
無間 です 地 です 獄 です
すなわち 無間 地 獄 の一部の体験です 本質は(怒り)です
そこからの脱出は いかに困難か
体が異様に重く 立ち上がる事が苦痛である
この状況が永遠に続くと思われるほど時間が進まない
鎖で縛られているように 自由がない
自分への怒りが 他人への怒りが 世の中への怒りが
炎となって 自分を焼くのです そして 恐ろしく寒い
地獄にも様々な苦しみがあり 八大地獄と言って 分類されています
後日 機会があったらご説明します
それを体験した人は
そこから脱出した人は 二度とあの苦しみを味わいたくない
と思い 常に考え 又努力をしています 謙虚な人が多いです
聞く耳をもつ事ができる人は早いのです
ここで一つの結論を述べておきます
前の方で 多くの詩人 哲学者が述べた 結論を羅列しました
「直ぐそこに 更に自分の中にある」と そうです
すなわち 地獄の苦しみは貴方の中にある我が苦しむのです
天国のような快楽の命も貴方の中にある我が喜ぶのです
貴方の中には この二つの命だけではなく幾つもの別の命もあるのです
生命の個別化の原理には 地獄(苦しみ)の命 天界(喜び)の命の他に
八個の命があるのです ここが入り口です
始めに 地獄~修羅
貴方の命の中にある地獄(苦しみ)の世界 略して 地獄界といいます
1)地獄界 → 苦しみにしばられた(拘束)最低の命、生きることが苦しみ。
(時間が遅い)本質はいかり(怒り)
心身共にこの怒りが占領してしまい、他に余裕がない
2)餓鬼界 → 目の前にある欲望の命 欲望が満たされずに苦しむ命(物質欲 所有欲
食欲 性欲 その他) しかし 悪いとは限らない
欲望が無ければ医療や文明の発展もないからです) 本質は貪り(むさぼり)
この欲望は悪いと決め それを絶つために 様々な修行をしている僧侶がいますね
それがいかに的外れか 荒行等をする 修行僧
智慧によって煩悩を正しくコントロール(制御)するものです
これを専門用語で「煩悩即菩提」といいます。
修行しながら死んだ僧侶を生き仏だとか 笑っちゃいますね ただの餓死者です
東南アジア諸国の小乗教の僧侶は 日本の生臭坊主とは違い
財産を持たない 酒も女もバクチもやらず 質素な生活に欲望はなく
回りから尊敬されています 着る物 履物 皆同じ
しかし 自分の成仏のみを願う 自己中です 模範的な生き方ではありません
性欲を絶つため 性器を切り取る僧もいます 笑っちゃいますね
政治経済にはかかわらず ごく珍しく行動を起す僧がたまにいますが
あ ダライラマ(チベット)は迫害されたから反発したのですね
私の勝手な話
チベット仏教はとにかく僧侶が多過ぎ 一家に一人僧侶が居る事は名誉だとか
1949年つまり中国革命の年、人口130万に対し僧侶は40万
20世紀には男の半分以上が寺にいたことになる。ところによっては3分の2
皆 働かない 男の出家が多すぎたために女の半分は余っちゃた。
男女差別 バランスが悪い ダライラマさん ノーベル平和賞???
持ち上げ過ぎ ペキンダック食って 指導は浅い言葉
私の勝手な脇道
男女差別反対でーす 仏教の経典には
「女人は地獄の使いなり よく仏の種子を絶つ
外面は菩薩に似て 内心は夜叉の如し」とあり 確かに男女差別でしたが
釈迦は 法華経で男女差別を撤廃しました それなのに何故でしょう
すなわち 法華経以前の経典を用いているからです
チベット仏教も 東南アジア諸国の仏教も女性の僧侶はいません
生まれ変わって 男に生ま変わらなければ成仏しないのです
幸い 大乗教の日本には男女差別ありません尼さんもいます よかった
でも 今でも女人禁制の山ありますよ 昔は 富士山だって 立山だって
女は登れませんでした
又 念仏で往生するといわれる 阿弥陀のいる極楽には女性がいないんですよ
女性は極楽に行くと 皆男になっいちゅあうんです
私にとっては地獄です そんな所絶対行きません
「南無阿弥お陀仏」は嫌いです …?ж・к
何故か
阿弥陀仏も極楽も釈迦の空想の産物だからです それと同じように
地獄が地の底にある と言うのも 極楽が西の彼方にあると言うのもウソです
当時のインドでは悪人も多く 無学 無知の人達が多くいました
そういう人達に 先ず 悪事を止めさせる事が大事です やむ負えなず
悪事を働くと (地獄へいくぞ)と得いたのです
仏を信じない 無知 無学の人達には 真っ赤に染まる夕焼けの彼方に
理想の地(極楽I)がある と言って 仏道心を起させたのです
緊急避難的な方便(真実に導くための ウソだったのです
危ない道路で遊んでいる幼児に 皆 (ガリガリ君上げるぞ)と
嘘を言って 幼児達を非難させるようなものです
南無阿弥陀仏…?ж・いくら唱えても 極楽に行けるわけありません
極楽なんて無いんだから ああ 日蓮が
「中略・・・委細に尋ねれば 地獄と言うも 極楽と言うも我が5尺の身の内に見えて候」
そうそう 自分以外に求めるのを「外道」
自分の中に求めるめるのを「内道」と言うのでしたっけね
余談をもう一つ
西郷隆盛の言った事だが
「命もいらず 名もいらず 官位も金もいらぬ人は 仕末に困るものなり」 とか
こんな欲のない人いるのかな こんな奴と付き合うの大変そう 確かに仕末に困る
欲は適当に持ってください いや 大いに持ってこそ進歩があるのです
しかし コントロールできなければガメツイ餓鬼道に陥るので要注意
ガンジーの言う 道徳無き商業 も 餓鬼道に陥るので要注意
又余談 今 アメりカのトランプ新大統領の話題が多いですが 彼はこの餓鬼界です
判断の基準が 「損か得か」「好きか嫌いか」です
普通「の人は もちろん損得を考えますが「道理に反していないか 正義か悪か」
等も考慮するものです 欲望にも 理性が働きコントロールします
彼にはそれがない 非常に危険です 甘く見ていると大変です
世界的規模で 大変な時代が やってきました
アメりカだけでなく 社会的背景の乱れを考える時が来たと思います
人間の問題を考えなければならない時が来たと思います
余談はきりが無いので おわり
3)畜生界 → 目前の利害に理性が働かない本能で動く動物のような命。
(弱肉強食 )本質は愚か(おろか)対照的に(賢い)は人
(畜生について て更に詳しく書く予定です)
ここは 詳しく書かなくても 誰でも分かりますね
畜生は恥を知らないんですね 恥を知らない人間は畜生です
畜生は明日の事考えないんですね 同じように目先で動く人は畜生界
ちょっ待って そんな人間より
冬のために せっせと食料をため込むシマリスの方がましでないですか
畜生は喧嘩の強いのがリーダーです 暴力をふるう人間は畜生界ですね
となると 戦争は餓鬼界と畜生界と次に説明する修羅界の人々の成れの果て
地獄を作ります 本質は愚か(おろか)です・・納得です
ちょっ待って うちで飼っている 猫の方がましだ(賢い)喧嘩しないからね
4)修羅界 → 驕(おごり)り高ぶる命 常に他人に勝ろうとする命。
小さな自分を隠して偉そうにしている人 エゴイズムの正当化
争いを「修羅場のような」とか ここからきています
少し 自我意識が芽生えた 支配欲 征服欲 自然破壊等も 本質はへつらい
偉そうに尊大ぶっている人が 真実がばれると 急に小さくなり
臆病になった例 ありますね
修羅とは阿修羅王の事です 帝釈天との戦いに破れ 尊大ぶっていた修羅は
帝釈天に真実を見抜かれ 小さくなったて蓮の葉の裏に隠れたのです
注・・・葛飾柴又の帝釈天にお参りする人 真実を見抜く帝釈天ですよ
貴方の真実を見透かれないように 注意しませう #・☆、△m?vg・・・
(更に詳しくは後で)
この四つを四悪腫と言います ちょっと字が違うかも
「安心して下さい」 どんな聖人君子と言えども この四つの命はあるのです
隠れているのです 潜んでいるのです 縁により出てくるのです
次に~天まで
5)人界 → 穏やかで平静な理性の働く人間らしい かなり自由な命。本質は平(たいら)
6)天界 → 物心さまざまな欲望が満たされて喜びに浸る命。
宝くじに当たったとか 有頂天になる (時間が早い)
自由な命に見える 本質は喜び 本当の喜びとは違い 空しさが漂います
要注意です 天は簡単に崩れ去るおそれがあります
(更に詳しく書くから ちょっと待って 先を急ぎます)
人界と天界は(自由)と言ったが それは 深く考えると 外から与えられた部分が多いのです
だから かなり自由 とか 自由に見える とか言ったのです
これは本当の自由とは違います この先でご説明しますので 少々お待ち下さい
この六個の命が出たり入ったりで一生終わる人を
俳諧老人とか 夢遊病者とかで たとえました
大変な介護をしている方々に 「たとえで使うな」って怒られるかもしれません すいません
これらの人達はこの六つをぐるぐる回っているから専門用語で(六道輪廻)と言います
生命の破壊は地獄界
少しばかりの欲求を満たそうと徘徊する(我)は餓鬼界
本能的に執着する心は畜生界
勝敗のみにこだわる利己心は修羅界と言えます
やっと最高の天界に上り詰めたと思っても 要注意です
直ぐ崩れ去るのです 地獄まで一直線 と言う事は 珍しくありません
それは天界の霧の中に 何かがいるんですね
・・・ エイリアンのような・・・笑い・・・魔物です・・・見た事ありませんが
「魔は天界に住む」といいます
魔とは命の輝きを奪う働きを言います
4っに分類します
陰魔 ・・信心修行者の五陰(肉体や心のはたらき)の活動の不調和が信心修行の妨げとなることです
煩悩魔・・貪り、瞋り、癡かなどの煩悩が起こって信心を破壊すること
死魔・・修行者の生命を絶つことによって、修行を妨げようとする魔です。
また、他の修行者などの死によって、信心に疑いを生ずることも死魔に負けた姿といえます
天子魔・・他化自在天子魔の略で、他化自在天王(第六天の魔王)による妨げであり、
最も本源的な魔です。「元品の無明は第六天の魔王と顕れたり」(997㌻)とあります
すなわち、この魔は、生命の根本的な迷いから起こるものであり、
権力者などの生命にあらわれるなど、いろいろな形をとり、あらゆる力をもって、
正しい修行者に迫害を加えていきます
別に 三障があります これも悪で 人を陥(オトシイ)れる働き
煩悩障・・・・
業障・・・・・
報障・・・・・
です
全部あ合わせて「三障四魔」といいます 我々を不幸にする 憎い奴等です
憎っくき「三障四魔」・・・その正体 知る必要あり
三障四魔 等に勝利する秘策あります 今日は飛ばします
エイリアンが何処にいるのか
三界の説明が必要になりますが 簡単に言うと
(1)欲界・・・・は六道(地獄~人界)
(2)色界・・・・ 欲を離れた 絶妙な色の物質によりる世界
(3)無色界・・・最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度な精神的な世界
ここの最高処に有頂天(うちょうてん)がある
よく 有頂天(うちょうてん)になって 失敗す人 いますね
ここで そのメカニズムがわかります
エイリアンはこのどこかにいます
エイリアンは人の心の中に 簡単に入り込んでくるんですよ
専門用語で(第六天の魔王)と呼ばれています
(六欲天) 等の説明も必要になるので
エイリアン探しは後日にします 先が進まないので
天界から落ちないようにするには六道輪廻から脱出しなければなりません
更にその上を目指すのです
次の四つを四聖と言います がむずかしいのです
青い空と緑の大地の話はここからなのです
7)声聞界 → 絶対の論理を聞いて (ああ なるほど)と一部分を覚った命です
知識もあり 理性もあり 直感も働く 力もある
先に「聞く耳をもつ事ができる人は早い」と言いましたが
この事なのです 貴方も我慢して もう少し聞いてください 一部を悟るかも
(更に詳しく書くから ちょっと待って)
8)縁覚界 → 自然界など、様々な物事を縁にして みずから発見し
みずから創造し 部分的な覚りを得た命です
(一瞬のひらめき インスピレーション等も)
みずから と言う点で 声聞界より一段と深い(歓喜に近い)
(更に詳しくは後で 先を急ぎます)
ずいぶん俳諧老人をたとえとして説明してきましたが
「何処から来て 何処へ行くのか 何のために」が判らないとか・・・
でも簡単です 自分の家から来て 自分の家に帰るのです
しかし「何のために」家を出たのかが判らないのです 必ず目的があるはずです
声聞界 縁覚界は それが分かり始めるのです
さて ここからが「何のために」の説明です
たとえれば 舞台に上がった役者は 例外なく それぞれの役割があります
自分の役を演技を大胆に 見事に演じるのです
我々の一生もこれと同じです この世と言う舞台に上がったのです
「何のために」・・・やらねばならない役割があるはずです
前の方で 生死は演ずると言ったのは この事です
この世と言う舞台に上がった以上 舞台を降りるまで 自分らしく演じ続けるのです
見事に演じる事ができたら 拍手喝采を浴びます
舞台から惜しまれつつ去るのです 名優と称えられます
一休みした後 当然 次の舞台が待っているのです
もしかしたら 自分の希望の舞台へ 希望の役柄で
出演する事ができるかもしれません 名優ですから
更に みずからシナリオを書き みずから主演を演じる事も
できるかもしれません 名優ですから
それとは逆に 舞台の上で 自分の役割がわからず 演技もできず
右往左往しているだけの俳優「大根役者)は 罵倒されます
回りに大迷惑をかけて 事故を起すかもしれません
途中で舞台から降ろされるかもしれません
もしかしたら怒られて 次の舞台は 当分無いかもしれません 失業です
やっと舞台に上がったとしても 大根役者はつまらない脇役です
このたとえが適切かどうかは わかりませんが 分かり易くと思いまして・・
7)声聞界の所で(一部分を覚った命)と言いましたが
まさに自分の役割を 舞台の袖にいる黒子に教えてもらい(これを縁といいます)
(ああ そうだったのか)と 一部を思い出した俳優です(少しましな大根役者)
でも まだ大胆に演技するまでにはいたらない状況です
そして縁覚界までくると 舞台の袖にいる黒子に案内され(縁といいます)
舞台装置を見て みずからの役を思い出し
みずから描いたシナリオ通りに大胆に 堂々と演ずるのです
歓喜に近いのです 修羅界では 自我意識が少し芽生えるでしたが
縁覚界では がぜん自我意識が大きく芽生えるのです
「我思うゆえに我あり」です (デカルト、ニーチェ、キルコーゲ ソクラテス)
その他多くの鉄人が 生涯をかけて 我(人間)の一部を悟るのと同じです
(人は何処から来て 何処へ行くのか 何のために)
この声聞界 縁覚界の2つを専門用語で「二乗」と言うのです
ここまで来れば六道輪廻)からの脱出です もはや俳諧老人ではありません
ずーと上の方の図面の解説で (生死は演ずる) と言いましたが
みずからの意思で 演ずる。実践。行動 が いよいよ始まるのです
本当の歓喜(大歓喜)は直ぐそこにあると思われます
しかし ここで大問題起こるのです
洞窟から一歩踏み出すのはいかに難しいか 思い知らされるのです
縁覚界での悟りは 一部のみで すべてではありません
勘違いして 悟りの本質まで到達したと思い込み
増上慢や 利己的な性格が頭を持ち上げてくるのです
そして 自分の奥深くに潜んでいた たちの悪い欲望が
引きずり出されてしまうのです
これを抑えるのは不可能に近いのです
理性を働かせ どんなに清らかかな良心をもってしても
命の深い深い部分(理性 愛情 良心より更に深い層)に潜んでいて
なすすべもなく現れるのです
専門用語では (元品の無明)と言います
元品の無明については 九識論で少々触れますが
分かり易くとなると難しい 後日
すなわち 聞く耳を持たなくなるのです
二乗は確かに知識もあります 自分は何でも知っている と言う自負もあります
自我意識も強く 力もあるので決して自分の意見を変えないのです
その頑固さは 手に負えません
洞窟から一歩踏み出すのはいかに難しいか 思い知らされるのです
この一歩は すべての常識の はるか先にあるのです
先日 これらの理論を ある程度学んだらしい方が 勝手に訪ねてきたので
とりあえず お話をお聞きしました
(五重の相対 腫塾脱 三証 等々 初歩的な事をベラベラと)
60~70%正しく20%~ どうでも良い事で 僅か2~3%が間違っている
と感じました
実は この僅かな狂いが 決定的な狂いなのです
20年も前ですが 昔 若い頃 共に学び 活動していた友が尋ねてきました
当時の僅かな狂いが 今とてつもなく大きな狂いになっていました
この僅かな狂いは何処からくるのでしょうか
元品の無明を断ち切る事ができなかったのです
一つは 狭い範囲内での 偏見を信じてしまった
文学 哲学 科学 芸術 歴史 政治経済 等に疎(うと)いのに
すべてを知る聖者のように振舞う
いや 分からなくてもいいのですが 何でも知っている様な思い込みは
妄信に陥り 相対して論じる事ができなくなっていました
そして一方通行で 裏をとっていない 噂の類を鵜呑みにしている
口ばかり 言葉ばかりで 何故がない 引用が間違っている
そして 決定的な一つが 違う意見を聞かない と言う事です
聞く耳を持たない と言う事です これは レベルの低い縁覚界です
今の社会 一芸に秀でた人を称えますが それで本人が思い上がり
錯覚してしまえば レベルの低い縁覚界 以下です
そう言う 偉そうな人 いっぱいいますね
総体的に優れている人は本当に少ないです
思い込みを捨て ひたすら正しく学び しがみつく思いで求め
偽り無く我を磨き そして信を強くする
我を磨かなければ 曇ってしまいます 道を間違えるのです
元品の無明に簡単に負けるのです
元品の無明を断ち切る利剣は信の一字です
そして それらを見事クリアすれば その上の菩薩界に容易に登れるのです
9)・・・・菩薩界とは
洞窟の外を見た人が 親しい友人に
「さあ 俺を信じて 外の世界を見てみよう」
と誘っても 親しい友人であっても
「・・青い空・・? 緑の大地・・?何それ? 信じられない」と言い動かないのです
外の世界を見た人は親しい友人に
「俺がお前に 嘘をついた事が一度でもあったか 俺の言う事を信じろ」
と 繰り返し言うのです それでも親しい友人は動きません
親しい友人は 先入観と言う色眼鏡をかけいるのです
更に 騙されたと言う 悪い噂を沢山聞いてしまったのです
外の世界を見た人は
「お前のためだ 人生が変わるんだ こんな暗い洞窟で一生終わっていいのか」
と 強く 優しく 理を尽くし言うのです
しかし友人は 何を聞かされても 理解しないのです
自分の人生を否定されたと思い 反発さえするのです
長い時間が過ぎ去ります
外の世界を見た人は 諦めず 外の世界を話すのです
そのうち 友人に少し変化が現れるのです
友人は 考えても分からないのですが こう思ったのです
「・・あいつが こんなに熱心に言うんだから 嘘とは言えないかもしれない・・・
とても信じられないが あいつの顔を立ててやろう・・・
あいつになら騙されてもいいか・・・
少し勇気を出して外の世界を見てもいいかも・・・」
勇気とは 強がる事ではありません
一歩踏み出す事なのです
友人は やっと重い腰を上げたのです「・・お前を信じてみよう・・・」
そうです 青い空と緑の大地 を信じたのではありません
友人を信じたのです
信は分からない事が分かるようになる それは信から知恵が沸くからです
どんなに多くの知識を有していても 知恵がなければ その知識は生かされません
知恵は信から生まれるのです その逆の 不信は 簡単な事でも分からないのです
洞窟の外へ一歩出た友人は 真実を見て 歓喜したのです
一瞬で外の世界を学んだのです
歓喜した友人は言いました
「ありがとう でも・・何故 もっと早く教えてくれなかったんだ・・・」
この場合 友人が(縁)と言う事になるのです
縁について この先で触れます
外の世界へ一歩踏み出た友人は決意します
「・・・この外の世界を知らない人達に 今度は私が教えなければ・・」
そしてその友人は歓喜したまま 再び暗い洞窟に戻るのです
今度は 外の世界を知らない洞窟の多くの人達に
みずから学び歓喜した 外の世界を語るのです
カントは
「人間にとって目的であるとともに 義務であるものは
自己自身の完全性と他人の幸福である」 と言いました
信ずる 行動 学ぶ ができたのです すなわち大歓喜です
これを「悟り」と言うのです
上の方の表で 信ずる 演ずる 学ぶ ができれば歓喜になると示しました
この事です (信・行・学)です
信じてから 行動です そして学んだのです
先に学ぶのではありません 順番を間違えないようにしましょう
学べば更に信じる心は強固になり 知恵が沸き更に果敢な行動へと繋がるのです
4Kテレビを見るのに 電磁回路 電子回路を勉強して納得してから
スイッチを入れる人はいないと思いますが それをやれば何年もかかります
取り扱い説明書を 信じて スイッチを入れると言う行動に移るのが普通なのです
信そして行そして学です
9)の菩薩界とは この人の事を指しているのです
当然 非難されます バカにされます 誰も話を聞きません
しかし真実を語らないわけにはいかないのです
ここで見事に 俳諧老人ではなくなるのです
(何のため)を悟った瞬間です
菩薩の顔は優しいのです 真実の世界を見た者にしか分からない
歓喜の命があるからです
人々を救済しようとする 慈悲の命が勇気の行動となるのです
暗い洞窟にいる この人達を救うのは自分だと決め 使命感が湧くのです
あえて 暗い洞窟で 皆と一緒に生活をするのです
この人は 周囲の評価 状況に一喜一憂する事はありません
地位や立場 経済力 容姿等で一喜一憂する事もありません
人を恨む事も憎む事もありません 関心を得ようと策に走る事もありません
少々 別の観点から言うと
自分の特技を活かし 知恵を働かせ人々を救う人を(文殊菩薩)
慈悲の力で救う(弥勒菩薩)音楽の力で(妙音菩薩) 医療で(薬王菩薩)
学理で(普賢菩薩) 政治経済で(観音菩薩)
菩薩の命は歓喜なのです
前の表で すべて歓喜に至る事を記しましたが
この事なのです
ちなみに 菩薩の数は 数えきれません
座禅を組んで じっとしている菩薩などいません
滝に打たれて 修行している菩薩などいません
のんきに 札所参りなどしている菩薩などいません
冠婚葬祭に明け暮れる 菩薩などいません
時を最大に生かしてこそ 命は輝くのです
生命の平等を知る「知恵の人」
差異を尊重できる「勇気の人」
人々と同苦できる「慈悲の人」
が菩薩です
教育は「自他共に益する」のが菩薩です
菩薩は 多くの人の中に みずから出向き 言葉巧みに語るのです
語らなければ 何も始まらないのです
人を救うのも言です 邪悪を砕くのも言です 時代を動かすのも言です
人々の苦しみを 我が苦しみとして 語るのです慈悲の表れです
慈とは いつくしむ 悲とは 共に悲しむと言う事です
慈悲とは励ましの事です
自分の仕事をしながら 家族を養いながら
そしてみずからの病と闘う事もあるのです
飢えた人に食を恵んであげるのは 小さな善です
飢えた人に仕事を教え みずから食を得る方法を教えるのは 中の善です
正しい思想を教え 人生の転換を促し 蘇生させるのは 大きな善です
その影響は他にも及ぼすからです 菩薩はこれをやっているのです
そして 世の不正に怒り 誰よりも行動しています
当然大功徳を受けるのです
功徳の功とは悪を滅する事で 徳とは善を生ずる事を言います
悪と戦う事の重要性を説き 悪と戦わなければ 功徳はないのです
ありがたい仏像を いくら拝んでも 功徳はありません
どんな荒行をやって修行しても 功徳はありません
結果だけは出ないのです この世は科学ですから
この地を天国にするも地獄にするも そこに住む人で決まるのです
極楽(理想の国)も地獄も遠い所のあるのではありません
我が家もそこに住む人により 修羅場ともなり 安息の場にもなるのです
道理です
この世に数ある思想 哲学 宗教を 正しく見極める基準の一つに
人間を強くするのか 弱くするのか
人間を善くするのか 悪くするのか
人間を賢くするのか 愚かにするのか
があります
人間を 弱く 悪く 愚かにする思想 哲学 宗教のなんと多い事か
アインシュタインは科学なき宗教を批判しました
しかし 宗教なき科学も批判しました
彼は科学にも限界がある事を知ったのです
この世には科学では説明できない事があります
残念ながら 日本人は科学と宗教を分けています
同じなのです 科学と宗教は一体なのです
少々長い引用ですが
加來道雄(理論物理学者日系3世)科学者は偏見をもつべきでなない
信じられない現象も受け入れなくてななりません
唯物論で人間を理解し、唯脳論で解決策を探すだけの科学では、
たとえ国家を挙げた研究でも限界にぶつかってしまうだろう。科学の未来は、
宗教と融合を目指す中に開かれるはずだ
と言っています 九識(くしき)論で更に詳しくと思っています
日本人の殆どは無宗教となっているように見えます
それは 指導すべき聖職者や 僧侶が特権階級のようにふるまい
宗教を独占し ビジネスにし 堕落したのが原因だと思います
しかし日本人の多くは
社会の秩序を信じ 道理を信じ 善意を信じ 行動しています
人種差別をしない マナーを守る 親切
これは日本人の誇れる宗教に見えるのです
これは仏教の思想です
日本人は長い間 養われてきた仏教の考えが
現代になっても まだ死んでいなかった と言う事です
聞いた話ですが 「アメりカ等のキリスト教社会の若者に
宗教別れが進んでいる」 との事です
既存の宗教への矛盾 弊害 等に気が付きはじめたのかもしれません
先ほど(科学と宗教は一体)と言ったが 論理的な説明が不完全でも
最後は結果を見るしかないのではないでしょうか
しかし 人間は宗教なしでは生きられないのです
トルストイは人間は宗教なしでは生きられない理由を
第一に 宗教のみが善悪の決定を与えるからだ
第二に 宗教なしでは人間は自分のしていることが善いか悪いかを
知ることが決してできないからである
第三に ただ宗教のみが利己主義をほろぼすからである
第四に 宗教のみが死の恐怖を打ち消すからである
第五に 宗教のみが人間に生の意義を与えるからである
第六に 宗教のみが人間の平等を樹立するからである
と言っています
キリスト教には当てはまらないかもしれませんが
話がそれてしまいました 本題にもどります
究極の菩薩 現代の菩薩を (四菩薩)と言います
名前を①上行(じょうぎょう)菩薩・②無辺行菩薩・③浄行菩薩・
④安立行(あんりゅうぎょう)菩薩といいます。
すべて(行)が付きます 実社会の中で行動するのです
衆生を幸福へ平和へと導く(リーダー)の事です
相関性を認識する 知恵
差異を尊重する 勇気
(異なる物同士が組み合わさるのを「和」と言い 新しい物を生み出します)
人々と同苦し連帯できる 慈悲を持っています
地涌の菩薩と言います
この地涌の菩薩は 地涌とあるとおり大地から涌いて出たのです
大地とは 究極 深理 基本 極地 大歓喜 等の事です
菩薩の人数は 数えきれません
そして この社会で活躍する事を 願っていたのです 待ち望んでいたのです
しかも 最も汚れた時代に 苦悩する人々のど真ん中に
不動の覚悟と誓いを堅持し 出現する事を願っていたのです
願って 願って やっと願いがかなったのですi
そして ついに その時がやって来ました
地涌の菩薩は喜び勇んで 小躍りしながら 出現したのです
大地から涌いて出たのです だから「地涌」と言うのです
でも 最初っから自分が地涌の菩薩であるとに
気が付かないのが普通です
しかし(縁)に触れ一瞬で 思い出すのです
(我 地涌の菩薩なり)と 使命も 誓いも 覚悟も
・・・憧れの理想卿 最終目的地・・・・
それを思い出すのです 自分そこに居たのではないか
自分はそこからここへ来たのではないか
目的地だと信じていたが 実は出発地だったのではないか
透徹した文学者ヘルマンヘッセは言う
「君が求めている光は 君自身の中に宿っている」 と
はっきりと思い出した 自分の住所は「輝く太陽の 青い空と緑の大地」だ
そこから来たのだ 暗い 冷たい 偏見と苦悩渦巻く洞窟に
それも自ら願い 誓い 勇んでやってきたのではないか
一瞬の出来事 Uターン現象 命の革命 「自然に仏界に至る」の核心
もう迷いはない 恐れるものはない 使命を果たして 堂々の凱旋だ
ゲーテは
幸福とは 「人生における自分の使命を 喜んで果たし行く中にある」
と言いました
まさに 大歓喜の人生の始まりです
そして やがて 過去 現在 未来 (三世)を悟るのです
生死の二法(妙) 因果の理法(法)を悟るのです
生命の究極の一法を 宇宙の根本の法則を 我即宇宙 を体得するのです
永遠の生命を 清浄そのものの、何ものにも汚されない法則を悟るのです
生老病死がそのまま喜びになるのです 歓喜の中の大歓喜に至るのです
成住壊空(じょうじゅうえくう)の空を悟るのです
九識心王真如の都(九識論で説明)に至るのです
最後の十番目の仏と言うのはこの人の事なのです
仏の異名に 道を知り 道を開き 道を説く とあります
死んだ人を仏とは言いません 大きな間違いです 勘違いです
これは江戸時代 寺請制度を利用した 坊主が
残された遺族を喜ばせ 金を取るための お世辞です
死んだ人が仏になどなりません
仏は菩薩の戦い続ける命の事です
仏像を見れば分かりますが 仏は皆 蓮の花の上にいるのです
原因と結果が同時に現れる事を象徴しているのです
蓮の花は 咲くと言う原因と同時に 結果と言う種ができるからです
すなわち 奇跡とか 偶然とか 例外とかは絶対ないのです
わかりやすく言うと 女を泣かせば 今度は女に泣かされる
人のものを盗むと 貧乏になる 人を騙(だま)せば 人に騙される
人を殺せば 今度は殺される
物騒な例え話で申し訳ありませんが
100人殺せば 100回殺される
と言う事です 因果応報 です
宿命(運命)は 原因による結果 であるならば 変えようがありません
原因と結果は科学ですから
しかし それでは 何もかも決まっているから 希望も努力も意味がないのでは??
と考えてしまいがちですが そこが問題です
この世は因果応報でも そこに縁があれば 結果は変えられるのです
落とした卵は必ず割れますが 下にクッションを置くと割れません
そう 其のクッションこそ縁なのです
暗い洞窟から 外の世界にさそってくれた友人こそ 縁なのです
舞台で 自分の役が分からない袖にいる黒子が アドバイスを出す それが縁なのです
古来より その人の運命の捉え方に二つの考えがありました
一つが 宿命論
どんなに努力しても運命は変わらない
自分の境遇をうけいれるしかない
あきらめを植えつける と言う考えで
結局 希望を奪う考えなのです
もう一つが 偶然論
どんな行いをしようとも 結果には関係ない
人生を無軌道にし 人々を傷つけても 意に介さない
これも 問題の考え方です
しかし 三つ目の考えがあります
因が同じでも そこにどのような縁が結びつくかにより
一人一人に現れる果は異なってくる
と言う考えです これは仏教の考えです
その仏の台座には必ず蓮の花があります
この 蓮の花は どんなに汚れた社会でも
その汚れに決して染まる事がないと言う象徴なのです
更に 社会の泥沼が深ければ深いほど
蓮の花は大きく咲くのです
仏の慈悲は キリスト教の(愛)とか 孔子の(仁)とは違います
慈悲の非は「ともに悲しむ」と言う意味があります
仏は多くの人々が生活している場で 苦楽を共に一緒にいるのです
その居住する所は大地です 天上界でもなければ
西の彼方の極楽でもありません
仏は 意(こころ)惜しまず 身を惜しまず 口を惜しまず とあります
仏は この悪因悪果を断ち切る 利剣を 妙薬を 羅針盤を教えます
自分自身が花を咲かせるのではなく 種をまいて 一生終わるのです
山奥で修行している仏はいません
赤や紫の袈裟を着た ど派手な仏はいません
自分の幸せのみ 願っている仏はいません
座禅を組んで 黙っている仏はいません
豪邸に住んで 贅沢な生活をしている仏はいません
政治経済に無関心な仏はいません
使命感 責任感は行動に表れるのです
誰よりも語り 誰よりも平和のための活動をするのです
精神の土壌を耕し 豊かな幸の花園にします
喪失した精神性は 人間を野獣にします
無理解のために 仏は必ず大難を受けるのです
嫉妬のゆえに 誰よりも多くの批判を受けるのです
それが悪世において 正しいと言う証明なのです
多くの人々に 人間としての模範的な生き方を教えるのです
私達の故郷は地球 国籍は世界 人種は人間であると
地球民族主義を掲げ
世界的規模で 万年の先を見据えて
ガンジーは 偉大な運動が経る五段階
「無関心 嘲笑 非難 抑圧 を突き抜けて 尊敬の段階に入る」
と言いました
ガンジーの言う「尊敬の段階に入る」のは200年先でしょう
最期のガンジーの言葉に
宇宙の秩序正しい道徳的支配への信仰は
開かれた精神性 大いなる宗教性は
あらゆる人の中に 平等にやどっている
その内なる力を眠らせたままでは決してならない
といいました
まさしく 仏教の菩薩の考えなのです
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ここまでが生命の10個の個別化(グループ別)の原理です
十界論 と言います
これは例外なく 誰でも持っている命なのです
では我々は どうすれば 最高の仏の命を表す(湧現する)事ができるか
その鍵は「信ずる」の一点なのです
駆け足で書いたので大雑把です 更に説明不足はご承知ください
叉 変な たとえが多くて 正確さに少々(かなり)欠ける所もありますので よろしく
又 書き足し あるいは削除しながら 更に分かり易くと思っています
更に引き続き こちらへ
九識論
-おもろいはなし-